高峰譲吉  たかみね じょうきち  1854,11,3 高岡生  1922,7,22 ニューヨーク没
 薬学者・工博・薬博
父精一は高岡生まれ加賀の藩医。蘭学及び医学を修め、舎密にも詳しく発明の才に長けていた。譲吉は12歳で藩の選択を受け長崎に遊学。1868年京都の加賀兵学塾に入り、主に語学を学び、翌年創立の大阪医学校に入ったが理化学に興味をを持ち大阪舎密学校にも通ってリッテル博士に分析術を学び、化学に転向。1879年工部大学校応用化学科卒。英国グラスゴー大学に3年間留学。工芸化学及び電気化学を修め、その間各地で化学工場を視察、実習した。米国を廻り1883年帰国、農商務省技師となる。1884年ニューオリンズの万国博覧会に本省の事務官として出張。出品されたリン鉱石に着目し、これを購入して帰国後渋沢栄一らと東京人造肥料会社を創立。その後も各種の工業調査を行った。1890年高峰式改良コウジをアメリカに持参、ウィスキーの製造に応用して大成功を収め、1892年には世界の医薬品となったタカジアスターゼを発明し、パーク・デーヴィスから発売した。また、ニューヨークに高峰研究所を設け、高峰を慕って渡米した上中啓三(1876-1960)を
助手として牛の副腎皮質からアドレナリンを結晶状に取り出した。(1900,6,29、発表は1901)ホルモンの結晶抽出は最初の壮挙なので世界的名声を博した。1899年工博、1906年薬博、1912年には学士院賞受賞。米国夫人と結婚。名実ともに大きな存在であった。彼は顕著な業績をあげたが、発表した科学論文は8篇、特許件数は12と少なかった。
櫻井錠二との関連
 1918年帝国学士院代表で出席の「国際化学学士院会議(ロンドン・パリ)」からの帰路、ボストンで「高峰氏の案内にて米国の有名なる化学者数名に頼みせられ、自分を正客として晩餐会の催あり。一場の演説をいたし候」との記述がある
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